福島第一原発事故関連報道と象徴暴力(上)

荒井 文雄

 

二つの悪からましな方を選べと言われても、わたしは選ばない。

カール・クラウス

 

要旨

東京電力福島第一原子力発電所の過酷事故から数年が経過し、放射能汚染地から避難した住民は、原子力エネルギー政策の継続を掲げる政府の方針によって、被災地の復興のために、ふるさとへの帰還をうながされている。この論考では、原発事故後の帰還と復興をうながす言説を、<象徴暴力>の観点から分析する新たなアプローチを取った。<象徴暴力>とは、フランスの社会学者ピエール・ブルデューによる概念で、被支配者が自分から支配を正当化して受け入れるメカニズムの中心をなす。帰還と復興を暗示的に推奨する新聞記事の分析をとおして、これらのメディア言説が<象徴暴力>の特性を持ち、その効果を発揮していることを示した。なお、「福島第一原発事故関連報道と象徴暴力(上)」では、論考全体のうち、前半部1〜3章を分割してとりあげた。

 

キーワード:原子力発電所事故、新聞報道、批判的言説分析、象徴暴力、メディアリテラシー

 

0.導入

 この論考では、東電福一原発事故をめぐる新聞記事のうち、事故後2年ほどの時間が経過した2013年1月以後のものを中心にして、帰還・復興政策が推進される被災地での状況めぐる報道言説を検討する。言うまでもなく、被災地の現実には様ざまな側面があり、多くの異なった人々が関係するから、被災地の状況を伝える報道にも様ざまなものがあるのも当然といえる。しかし、同一のトピックを扱う記事言説の間の相違は、報道の対象の多様性によるものではなく、記事の製作者側の報道姿勢の違いに起因することもある。

 新聞記事やテレビのニュースでは、対象となる<事実>が報道する側の視点・立場によって異なった色合いを帯びて提示される。<事実>のさまざまな側面のうち、焦点をあてて取りあげられるものもあれば、背景に置かれるもの、さらには取りあげられないものも存在することになる。<事実>はどうしても多面的であるから、こうした取捨選択はできごとを語り伝えるさいには、避けて通ることができない。さらに、どんなに中立性・客観性を標榜しようと、<事実>に対する語り手の評価が入り込むことは避けられない。その場合、評価は必ずしも明解な評価的表現の形を取るとは限らず、しばしば表向きのことばからの暗示やいくつもの段階をへた含意のかたちを取ることもある。報道内容の性格を決定づけることになる記事・ニュースの製作者の基本的報道姿勢は<枠組みづけ>(フレーミング)すなわち、「選択、強調、排除に関する継続的なパターン」(文献18)として、メディアの言説分析の分野でよく知られているが、その<枠組み>=<提示型>が、特定の新聞社・放送局など、個々の報道機関の姿勢・方針によって変化することも常識といえる。しかし、同一の報道機関の内部でも、異なった部門(たとえば政治欄と家庭欄)や番組のタイプなど情報が提供される場面によって、あるいは記者の個性や所属部署などの違いを反映して、異なった<型>が採用される可能性がある。

この論考では、原発事故後の被災地の状況をめぐって、対立する<型>をもつ二つのタイプの記事群を対照的に検討してゆくが、それらはどちらも東京新聞から採集した。他の報道機関からも若干の記事・番組を引用したが、それらは最小限の参照にとどめた。おもな資料のソースとして東京新聞を選択したのは以下のような理由からである。

東京新聞は、東電福一原発の過酷事故の最初期から、原発事故報道で定評があり、報道関係の賞をいくつか受賞している(記事1〜4)とくに、調査報道をかかげる「こちら特報部」の原発事故関連の記事は、東京電力や政府に対する率直な批判も含めて、原発事故後に読者の信頼を勝ちえてきたといえる(記事2・4)。こうした報道姿勢を持つ東京新聞に、この論考が対象とする時期から、従来とは異なる<型>の記事群が登場し、それ以前からある「特報部」型の記事とはっきりとした対立を見せるようになった。この論考の目的は、この新たな<型>の記事群の特徴を、従来型の記事との対比をとおして分析し、そこに現れた<象徴暴力>(第5節参照)の構造を明らかにし、それがこの時期の東京新聞に現れた理由について推測することにある。

<象徴暴力>の構造を検討するために、この論考では<物語分析>の手法に依拠した(文献18・24)。メディアのニュース分析にも用いられるこの方法を用いることにより、明示的な言明よりも、含意や暗示によって作用する<象徴暴力>の実態に迫ることが可能になった。

この論考では、あくまでも記事言説の構造自体を問題にする。すなわち、記事に書かれている内容、書かれていないポイント、書かれたことがもたらす文脈的含意、そして語彙や表現形式などの書き方を問題にする。記事が被災地の現実を忠実に反映し、誠実に伝達しているかどうか、あるいは取材対象となった人々の<本当の気持ち>を記事が伝えているかどうかは、問わない。新聞記事として構成され、メディアを通して広く流布された言説をその構造と社会的効果の点から分析するから、記事に関して、報道側の誠意の問題−<事実>を反映しているか、誇張などの作為があるか、など―は、捨象できると判断したからである。

取りあげた記事は、見出し・日付などの主要な情報のみ文末にまとめて掲げた。特に断りのない限り、すべて東京新聞のものである。記事の引用を示すために鉤括弧「」を用い、筆者による強調には山括弧<>を用いた。二重鉤括弧『』は、引用文献の書名を示す場合に限って使用した。引用された記事等のテキストの内部では、原文における鉤括弧、山括弧、二重鉤括弧の使用をそのままの形で残した。ただし、鉤括弧の関しては、筆者による引用の開始・終了と区別するために、引用文内部の鉤括弧には、太字処理を施した。参照した文献は、文末に掲げ、文中では文献表の番号で言及した。

 

1.原発事故関連報道にみられる異なったアプローチ

 導入部で指摘したように、東京新聞には、2013年初頭ころから、従来の報道姿勢とは異なる<型>の記事群が登場した。同じ事実やトピックを扱ったものでも、<型>の違いは大きく異なった言説を生み出す。その実例を以下で検討してみよう。

 

1.1 国道6号再開をめぐる報道の二つのタイプ

一つの出来事に対する異なったタイプの取りあげ方の例として、原発事故後閉鎖されていた国道6号の通行再開というニュースをみてみよう。

 この出来事の東京新聞による第一報(記事5)は、解除の当日、2014年9月15日だが、そこでは通行制限の解除によって「物流や住民の交流が活発化し、復興につながると」という「期待」と同時に、「人の出入り」などの増加によって「犯罪や交通事故が増えるのではないか」という「住民や周辺自治体」の「懸念」、そして、「除染後」とはいえ、なお高い「空間放射線量」の数値が伝えられている。(「空間放射線量は平均で毎時三・八マイクロシーベルト。除染前と比べ二〜三割程度低減した。帰還困難区域を含む避難指示区域を通過する場合、被ばく線量は推計で約一・二マイクロシーベルト。」)

 18日には、「こちら特報部」の記事6(2780字)が、解除区間の走行レポートの形でこのできごとを取りあげたが、そこでもやはり相変わらず高い放射線量の話題から始まっている(「周辺の空間放射線量を測定してみると、毎時〇・九五マイクロシーベルト。道路の真ん中は一・六五、道路脇の草むらでは、三・一〇まで上がった」)。また、第一報で触れられていた「バイクや歩行者などは引き続き通行できない」という事実に対して、「二輪車や歩行者の通行が禁止されているのは、被ばくの恐れがあるためだ。四輪車であっても駐停車はできない。政府は、窓を閉めてエアコンは内気循環にするよう呼び掛けている」と被曝リスクとの関係を明示している。さらに、走行とともに変化する放射線量の変化も詳しく記述している(「福島第一原発に近づくにつれ、車内の空間線量は二、三、四マイクロシーベルトと上がっていく。福島第一原発から西約二キロの中央台交差点付近で、六・三八マイクロシーベルトに達した」)。

 「人の出入りが増えることによる盗難などの犯罪の増加」を懸念する声を紹介するのは、第一報と同じだが、住民の声に関して、この記事6ははっきりとした対比的アプローチをとっている。すなわち、「南北の人の交流が増えるだろうと歓迎」する声がある一方、「子どもや孫は通らせたくないな。原発の近くは線量が高いからと話」す人もいる。仮設店舗商店街の開店を、「今までは人通りが少なく隔離されているような閉塞(へいそく)感を感じていたと喜ぶ」人がいる一方、「正直、規制解除に特段の思い入れはない。楢葉に人が住むことができて、商売も軌道に乗るようにならないと、町が元気になったという実感は湧かないと話」す人もいる。

 特報の一つとして書かれたこの記事6は、第一報が伝えた「事実」の枠組みの中で、より詳細に事実の多面性を記述しているといえる。これに対して、同じ出来事を取りあげながら、これとははっきりと異なった視点から書かれた記事が同じ東京新聞にある。

 9月30日には、第4面の特集「3・11後を生きる」の連載記事(記事7)が、国道6号の再開を伝えている。この記事7の筆者は、上記の記事6の記者と同様、通行制限が解除された国道6号を車で走り、その間の取材にもとづいて記事を書いているが、記事6とははっきりとした対照をみせている。

 まず、全文966字中、放射線量に言及しているところが記事7には一つもない。原発事故との関連も、通行制限が「警戒区域」の設定にもとづくことを冒頭で指摘しただけにとどまっている。(「工事用の車両や作業員の輸送用のバスやマイクロバスが多い。何人もの作業員が、体を傾けて眠り込んでいた。」という描写があるが、これが東電福一原発の作業員たちをのせているのかどうか、関心を示していない。記事6には「早朝のこの時間も、マイクロバスやトラック、乗用車が行き交う。バスやトラックには、福島第一原発の通行証らしい黄色い標章が付けられていた」と原発事故と通行車両との関係が提示され、そうした車両の写真も掲載されていた)。さらに、記事6が放射線量の高さだけでなく、放射線のリスクに言及していたのに対して、こちらの記事7にはむしろリスクとは縁のうすいあたりまえの日常の風景が、以下のように描写されている。

 

「道路沿いには多くの警察官や警備員が普通の制服姿で立っている。マスクをつけていない人もいる。」

 

 放射線防護のためのタイベックスーツを着用せず、「普通の制服」で「マスクもつけていない人もいる」光景の提示は、原発事故やその後の放射能汚染に対して、国道6号の再開が事故以前の日常の回復を示すものであることを暗示する。日常性の回復は「仮設商店街」の「オープン」によっても確認される。「便利になったと話」す客がおり、「お彼岸」には、「お墓参りに行く人」で「お客さんが百人を超えた」と「笑顔で話」すラーメン店経営者・佐藤さんの妻がいる。上でみた記事6では、同じ仮設商店街について、閉塞感からの解放と同時に、永続的な効果を疑う冷めた見方が対比されていたが、こちらの記事7には前向きで明るい側面しかない。そしてそうした楽観性は、当事者たちの姿勢・心理(「笑顔」)をとおして心情的に読者に訴えかけるものになっている。

 

「お店の真っ白な壁に色紙が飾ってあった。思いきってふみ出してみる それが幸せの一歩とあった。佐藤さん夫妻の思いのように見えた。」

 

仮設商店街でお客が増えたように、6号全体でも交通量が増えたことを、この記事7は強調する。通行車両は「解除後、平日は一万台を超える」。これに対して、上の記事6は、6号周辺の原発事故後の荒廃ぶりをあらためて提示する。

 

「明るくなったため、早朝には分からなかった町の様子が見て取れた。国道沿いにラーメン店、ガソリンスタンド、クリーニング店、食堂などが並ぶが、いずれも人影はない。」

 

さらに、記事6の末尾で記者は自分の「実感」を述べるのだが、それは、原発事故後の過酷な現実の再確認である。

 

「いわき市に着くまでに、原発作業員を乗せたバスを何度も見かけた。国道6号は通行できるようになったが、原発事故はまだ収束していないということを実感した。」

 

これに対して、原発事故への言及のない記事7の記者の末尾の認識は、「制限速度が守られているのも、駐停車の車がいないのも、多くのパトカーが巡回しているおかげと分かった」、となっている。この感想は、国道再開が犯罪の増加をもたらすという懸念に対する反論として機能すると同時に、「多くのパトカー」が代表する公共サービスの存在が、事故前の日常生活の回復を暗示するものとなっている。

 

1.2.原発事故後の地元の現実を題材とした映像作品の紹介

もう一つ、類似した<語り口>の差異をしめす対照的な記事グループを検討しよう。

 2015年1月20日の東京新聞朝刊は、一面の記事8で「原発事故の避難住民のうち・・・移住を決める人が急増」しているというニュースを独自の調査にもとづいて報道し、故郷に帰還したい気持ちと放射能汚染への不安とに引き裂かれた当事者たちの心情が伝えられている。二面ではさらに、移住先での生活再建のむずかしさが不安に追い打ちをかける様子も伝えている。

 ところがその前日の夕刊ではこれとは対照的な記事9が掲載された。記事9は、東京から福島の地元に戻った」ソーシャルメディア・コンサルタント業の女性が、「人々の笑顔や印象的な風景を切り取り」、「福島の魅力を」「世界に紹介」する動画をインターネットで発信する活動が取りあげられている。企業業績向上のためにフェイスブックを利用する方法などを提言するこの女性は、「原発事故で暗いイメージがあるけど、市民は普通に暮らしている」という「福島のリアルな姿を伝えたい」と語っている。動画には「笑顔」や「和らいだ」「表情」をした人々が「楽しく仕事をしてい」たり、「楽しく踊る」姿がおさめられ、よちよち歩きの幼児の踊りを、手拍子を打って笑顔で見守っている若いカップルや、浴衣姿で足湯を使っている少女たちの写真がそえられている。「福島の人にとってもふるさとの良さの再発見」に導くという意図も持ったこの動画は、「愛する地元へのメッセージでもある」という主張が末尾で述べられている。

 さらに1月27日夕刊には、やはり映像作品を紹介する記事10が掲載された。この記事では、「夜間の宿泊はできない避難指示解除準備区域」に「一人で住み続ける」男性を追ったドキュメンタリー映画が取りあげられている。この映画の監督の女性は、主人公の男性について、原発事故のせいで「自分の愛する町に住めないことへの怒りと二度と原発事故が起きないようにと願う気持ちが、居続けるという形の抵抗になっている」と語る。さらに、この男性の「怒り」と「抵抗」は、「海外の多数のメディアで大きく取り上げられ、外国では存在が知られていたが、国内ではほとんど報道されず、疑問を持った」のが自費による映画製作のきっかけであったことも語られる。

 記事8・9・10には対立するいくつもの要素が、それぞれの記事の型にそって盛り込まれている。数値データに基づく記事8は、原発事故の被害を受けて避難している人たちの困難な状況と屈折した心情を伝える。記事9では、同じ福島でも避難の対象とならなかったところでの「普通の暮らし」を強調する。そこにある「福島の笑顔」(見出し)こそ、「世界に紹介」する価値があり、また、地元の人が「再発見」しなければならないこととなる。記事10では、避難指示を無視して原発事故への「怒り」と「抵抗」を表明する人の姿を、外国でのみ知られているという状況への批判も含めて、取りあげている。

 国道6号開通をめぐる記事の場合と同様、記事8−10を対比すると、移住と帰還、「揺れる心」と「普通の暮らし」、「心配」と楽しさ、「怒り」と「笑顔」などの対立する諸要素が、表現・発信行為の異なった動機ともからんで複雑に交錯している。それは、単に、未曾有の原発事故が生み出した複雑な現実の異なった側面を反映しているということではない。言うまでもなく、現実には、時には矛盾・対立するとも思われるさまざまな事例が同時に併存することもある。原発事故の規模や影響の大きさを考慮すれば、こうした現実の多様性はいっそう深刻なものになると予想される。しかし、ここまでみてきた記事に認められた相違は、個々の事例の特殊性にさきだって、記事を書き、かつ、流通させる報道側の意図の違いによるものだといえる。そもそも、記事が扱う事例、すなわち記事の主題=話題それ自体が、現実の多くの事例の中から行われる意図的な選択の結果であり、それを記事として特定の切り口(視点)にそって構成するために、<事実>の側面の意図的な取捨選択や異なったレベルの重要度の割りあてがおこなわれる。そしてそれらは、記事の文体(単語の選択、文章の書き方)に反映され、何らかの主張に集約される。この主張は、明示的になされることもあるが、よりしばしば示唆・暗示・含意という、曖昧で非明示的な形を取ることもある(文献13・18・31)。

 一定の主張をひそませた意図と、それにもとづいて構成されるこのような記事の骨格は、ニュースの<枠組みづけ>として研究されてきたが、ここではそれを、記事の<提示型>と呼ぶことにしよう。個々の記事には何らかの提示型が結びついているが、原発事故のような巨大な主題の場合、事故とその影響を扱う複数の記事に共通して適用される基本的ないくつかの提示型が存在する。ここで検討している東京新聞の場合、避難民の「帰還」が政治日程に上るようになった事故後数年を経た時点では、上でみた国道6号再開の記事が典型的に示したように、「こちら特報部」の一連の特報記事と、「3・11後を生きる」のページに掲載された記事との間に、はっきりとした提示型の対照が存在した。「こちら特報部」に掲載された記事にみられる提示型を「特報部」型と呼び、「3・11後を生きる」の記事にみられる提示型を「3・11後」型と呼ぶことにして、以下、それぞれの<型>の特徴を検討してゆくが、その前に、被災地の現状と避難者のふるさとへの帰還を中心として、<客観的>事実を整理しておこう。

 

2.原発事故被災者たちの現実

2.1. 事故後4年でもなお多くの避難者、帰還へのためらい

 記事11が示すように、東電福一原発事故から四年を迎えようという2015年2月時点で、全国に避難している人は、十一万九千人に上る。福島県内の仮設住宅にもまだ四万戸余りが生活している。これは、地震発生から四年の段階で九割が仮設住宅を退去していた阪神大震災のケースと著しい対照をなす。記事8でみたように、避難者たちは、「移住先で生計をどう立てていくのかという課題」をかかえながらも、「帰還せず移住を選ぶケースが急速に増えている」のが、2015年初めの現状だった。すでに、その1年前の2014年2月に東京都で行われたアンケートでは、東日本大震災以後、都内に避難している世帯の66%超が都内への定住を望み、地元県内への帰還希望が減る傾向があるとするアンケート結果が出ていた。定住希望世帯は、12年は37・2%、13年は61・2%であり、年ごとにはっきりと増える傾向にあった(記事12参照)。

 

2.2. 避難区域の解除と賠償の打ち切り

 避難者を取り巻くこうした現状は、被災地への帰還をうながし、それを復興の目安とみなす政治方針と対立する。政府与党は、2015年5月には、原発事故による「避難指示解除準備区域」と「居住制限区域」の避難指示を2017年3月までに解除して、「復興の加速化」するよう政府に求めた。これらの区域の住民に対する月10万円の慰謝料も解除1年後の2018年3月打ち切ることも提言した。同時期に、福島県は避難区域外から避難している「自主避難者」に対して、事故以後1年ごとに延長してきた住宅の無償提供を、2017年3月をもって打ち切る方針を明らかにした(記事13)。無償提供が住民の帰還を遅らせ、復興の妨げになっているという考えからである。

 避難指示の解除は一部の地域で2014年から始まっていた。同時に、南相馬市では、避難指示区域とは別に放射線線量が局所的に高い地点(いわゆる「ホットスポット」)として指定されていた「特定避難勧奨地点」(142地点)も2014年末に解除された。指定が解除されれば、それまで支払われていた慰謝料もなくなる。記事14にみるように、解除に対して、対象住民は、除染の不徹底や高い放射線量への不安を理由に「反対一色」だったが、解除は強行された。なお、南相馬市は、上でみた政府与党の復興加速方針より以前に、2016年4月を市独自の「帰還目標」として設定している。

 

2.3. 政府の原発再稼働・原発輸出方針および事故現場の「アンダー・コントロール」宣言

政府与党は、すでに2013年の参議院選挙から、「原発再稼働」を政治方針として掲げ、以後、その方針にそった行政手続きが粛々と進行している(記事15)。政府はまた、原発を輸出産業として推進する方針も維持し、ベトナム、トルコ、中東諸国、インドに対して、首相自身が先頭に立った積極的なセールス戦略を展開している(記事16〜18)。これらの動きは、2014年4月に閣議決定したエネルギー基本計画に集約された。すなわち、原発は「重要な基幹電源」であり、「原発インフラの国際展開を推進することが重要」と明記された(記事19)。一方、2013年9月のオリンピック招致演説では、事故現場の状況が「コントロール」されているという宣言が、世界中に発信された。その一方で、当時から事故現場での「汚染水漏れが相次いで発覚し収束には程遠い」(記事20)状態であるのは周知の事実であり、またその後も漏出は続いていた(記事21)。対外的な場面で原発事故の現状を取り上げない傾向は、2015年3月に開催された国連防災世界会議でも同様であった。(記事22)。

 

2.4. 「子ども・被災者支援法」の実施の遅れと「基本方針」に対する失望

 2012年6月に国会において全会一致で成立した「子ども・被災者支援法」は放射線量が「一定の基準以上の地域」を支援対象地域とし、定期的な健康診断や就学援助、食の安全確保など包括的な支援を定めていた(記事23)。しかし、法の趣旨を具体化し、政策に反映させるための「基本方針」は1年以上も策定されず、早期支援を求める避難者らが国を相手取り訴訟を起こす事態にまで発展した(記事24)。また、復興省の実施責任者が被災者を侮辱し、支援政策の先送りを示唆するような「暴言ツイート」を流していたことも暴露され、行政に対する不信感が増幅された(記事25・26)。その後2013年10月にようやく「基本方針」が策定されたが、支援対象となる地域の認定を、法で定められたように一定の放射線量によらず、福島県内の一部の地域に限ることや、新規の具体的政策の欠如、帰還促進の方向性、個人被ばく把握の方法、意見聴取の欠如などの点で当事者から多くの批判が起こった(記事27・28および文献10)。

 

3. 「特報部」記事の特徴―住民に「不安」を与える帰還・復興政策の批判

 上でみたように、原発事故の避難者をめぐる状況はきびしい。国内・国外の両面で原発事業の推進をめざす政権は、「復興の加速」(記事19)をかかげて事故以前の状況の早期の回復をアピールしようとしている。避難者には、早期の帰還がうながされている。一方、避難者が故郷に帰還するためには、住居や農地などの事故以前の状態への原状回復が前提となるが、こちらのほうは容易には進行しない。東京新聞は、「特報部」を中心にして、こうした矛盾をきびしく追及していた。避難者たちには、一方では放射線による健康被害への懸念があり、また、他方では避難生活の困難があるが、国の施策は避難者の懸念を解消するには至らず、また彼らの困難をかえって深める方向に作用している。「特報部」の記事はこうした国の施策に対してはっきりとした批判の姿勢をみせている。

3.1. 「除染」に対する批判

 たとえば、記事29〜32では、放射能の除染に関する国・地方自治体の「現実迎合の措置」(記事29)を批判している。除染は、当初から「年間の(追加)被ばく線量一ミリシーベルト以下=毎時〇・二三マイクロシーベルト以下」という除染目標を設定して行われていたが、現実には除染作業終了後もこの基準値まで低下しなかったり、あるいはすぐに線量が再上昇するケースが多くあらわれた(記事30・32)。こうした事態を受けて、国・地方自治体は再除染などのあらたな放射線防護対策を考えることもなく(記事32)、避難指示の解除など、帰還に向けた動きを現実化させていった。さらに国・地方自治体は、線量がいぜんとして高い地域に「そのまま帰還を促すかのような提案」(記事30)をするだけでなく、むしろ除染目標を緩和することを検討しはじめた(記事31)。こうした現実を受けて、特報部の記事は避難者たちの「不安」をねばり強く追いかけている。それは、除染後もみられる「線量高止まり」に対する「不安」であり、こうした「被ばくの不安」は「健康に不安を抱えながら生活する地獄」とも表現される。

 

3.2. 「経済援助打ち切り」に対する批判

 特報部の記事が注目するもう一つの点は、避難者に対する経済的援助の打ち切りである。記事33は、避難中に支払われていた慰謝料月10万円を、避難指示の解除後1年で打ち切ることを政府が決定したことを報じると同時に、解除のモデルケースとなる田村市都路地区を取材し、いぜんとして高い放射線量に「不安がる」住民たちの現状を伝えている(「除染済みの自宅周辺では、いまも除染目標の毎時〇・二三マイクロシーベルト(年間積算一ミリシーベルト)の四、五倍の線量を計測する」、「放射線量は高く、地区内の国道288号では毎時〇・七マイクロシーベルトを超えた」、「男性(55)は家の中も毎時〇・二三マイクロシーベルトを超える。これでは若い人は住めないと話した」、「住民たちから線量が落ちてない」「再除染や森林除染をしてほしいといった被ばくについての懸念が多く出され、行政の解除ありき方針に対し反発があった」)。高い放射線量下での生活の再建は、健康不安だけでなく、住居・仕事・医療・買い物などの点で多くの問題がある。避難住民たちは、「あくまで解除に突き進みそう」な行政の姿勢とは反対に、帰還をためらわざるを得ない。そして「慰謝料は避難住民にとって(避難先での)生活費の一部になっているため、打ち切りは生活困難に直結しかねない」というきびしい現実に避難住民は直面するのである。記事34は、こうした国の方針を「棄民化政策」と名づけている。「帰還するか、移住するかの判断を被災者に委ね、その選択を保障するのが東京電力や国の務めのはず」であるのに、「帰還を押し付け」、保証を打ち切ってその後の生活を住民の「自己責任」としているからである。この記事もまた「緊急時避難準備区域」の指定が2011年9月に解除され、慰謝料も12年8月で打ち切られた川内村の東部の住民を取材し、避難生活の困窮と帰還生活の不安の間に引き裂かれる人々の現状を、今後予想されるより大規模な避難指示の解除の先行事例として提示している。

 避難指示が解除された地区の住民は、帰還しなければ「自主避難者」として扱われる。自主避難者には慰謝料の支払いはないが、震災による他の避難者と同様に、避難先での家賃について、一世帯当たり月6万円以下の補助が出ていた。この家賃補助の新規申請受け付けが中止されたことを記事35は伝えている。この補助は「原発事故子ども・被災者支援法」の「代替策と位置付けられ」ているのだが、新規申請を認めない一方で、「支援法」の基本方針は、法律の成立後1年以上も作られることがなく、したがって家賃補助の受け付け中止は、「自主避難者」への支援がこの時点で消滅することを意味した。この記事では、「除染効果」への「失望」や放射能汚染に対する住民の不安が語られるだけでなく、「自主避難者の間」にある「避難者を県に戻すことが本当の目的ではないか、という懐疑」やそれを裏づける政府高官の発言(「復興庁の斉藤馨参事官は県からは県民の流出を防ぐため、支援策をやめてもいいと聞いた。」)も採取している。この発言は、放射能汚染環境への不安があっても、「経済的な理由で福島に戻る人たちも増えてきている」という自主避難者たちが強いられる現実の拘束がどこからやってくるのか、よく示している。

 

3.3 「リスクコミュニケーション」批判

 記事32は、「福島の手抜き防護を問う・・・「防ぐより慣れよ」が政府の本心?」というタイトルの示す通り、避難者が追いこまれた行きづまり―住むことも避難することもできないという二重の拘束に対する国・自治体の政策的責任を正面から批判している。記事は、「低線量被ばくの受忍を押しつける国の姿勢は帰還政策にも反映されている」としているが、「被ばくの受忍」という表現は、中川保雄著『放射線被曝の歴史』(文献16、島薗進による解説(文献21)も参照)をふまえていると思われる。

 

今日の放射線防護の基準とは、核・原子力開発のためにヒバクを強制する側が、それを強制される側に、ヒバクがやむをえないもので、我慢して受忍すべきものと思わせるために、科学的装いを凝らして作った社会的基準であり、原子力開発の推進策を政治的・経済的に支える行政的手段なのである。しかし、この歴史の実態と真実は、これまで明らかにされることはほとんどなかった。なぜなら、「放射線防護」に関するほとんどすべての解説や説明が、ヒバクを強制する側の人々によってもっぱら書かれてきたからである。ヒバクを押しつけられ、犠牲を強いられる人々の側から、ヒバク防護の歴史が語られることはこれまでなかったのである。(『放射線被曝の歴史』225-6ページ)

 

 特報部の記事には、「ヒバクがやむをえないもので、我慢して受忍すべきものと思わせるため」に行われる様々な試みの報告とそれに対する批判もある。記事30は放射線の健康影響について、「いまだにはびこる誤った安全論がある」とし、記事32は政府の「リスクコミュニケーション」について、「専門家との対話を通じ、放射線リスクや防護策を考えてもらうことが狙い」という建前とはうらはらに、「実態は事故による健康影響は考えにくいという結論ありきの内容だ。カネや手間がかかる住民や除染作業員の被ばく防護よりも、被ばくリスクを甘受させた方が容易という政府の姿勢が垣間見える」と批判している。さらに記事36は、国の「十一省庁、委員会の合作」による「放射線リスクコミュニケーション(リスコミ)に関する施策パッケージ」について、その「内容は安全神話ならぬ安心神話」であると断じ、国のリスコミに批判的な識者の談話を紹介している。この記事は、国によるリスコミが「生活を脅かす状況について、住民ら当事者たちがさまざまな視点から意見を交わす中で、その深刻さなどを正確に捉え、適切な対処法などを導き出す」という本来のありかたからかけ離れて、「早期帰還を進めるため、『健康影響なし』という考え方を押しつけようとしているだけ」になっていると指摘する。それはこのリスコミ活動の基本マニュアル「放射線リスクに関する基礎的情報」が「低線量被ばくを軽視する安心神話」に「貫かれている」ことからも明らかだ。さらに、このマニュアルに沿って行動する「相談員を地域に配置」したり、「専門家を交えた少人数の座談会を開き、住民同士が不安を共有して心の負担を軽くさせる」という活動も、「『この数値なら大丈夫』『健康影響はない』という答えがもう出されている」状況で行われることになり、「地域にいる保健師や看護師」からなる相談員は、「『健康影響なし』という考え方をすみずみまで行き渡らせようと」する「思想指導員」の役割を担っているときびしく批判している。

 国や自治体が組織するリスコミには、低線量放射線による健康影響を否定ないしは軽視する学者たちが関係していることは、記事36〜38によって指摘されているが、記事37はこうした国家レベルの立案者たちとは別に、「草の根で安心神話」を広めようとするボランティア的な市民の活動も紹介している。「放射能を気にしすぎたら、かえってストレスで体が悪くなることを住民たちに伝え」、「いま必要なのは安心できる言葉だ」と考えるこの市民は、国家レベルの学者たちと交流を持ち、自治体の補助金を受けている。この記事はまた、リスコミに関係する国際組織の存在と、チェルノブイリ事故におけるこれらの組織の実績も紹介している。草の根レベルの協力者と同様、「安心神話は国際的な力を背景に広がりつつある」と記事は結論づけている。

 「安心神話」と名づけられた放射線防護のスタンダードが、グローバルな国際組織によるテコ入れによって維持されていく様子は、上に引用した『放射線被曝の歴史』の一節と符合するが、これらの記事は他方で、国がリスコミに力を入れる意図を推測している。すなわち、「国は早期帰還を実現させて避難者の生活支援の費用や賠償を抑えたい」し、「事故の影響を小さく見せれば、初動対応が遅れた責任をごまかし、他の原発の再稼働も進めやすくなる」という指摘である。

 上でみたように、避難者は放射能汚染への不安と帰還圧力の間ですでに苦悩していたが、そのうえさらに行政が「繰り返し開く」「少人数の車座集会や講演会」(記事38)に出席したり、地域の「相談員」や「草の根」のボランティアが語る「安心できる言葉」を聞かなければならない。しかし、避難者が置かれた現実の困難はリスコミによって解消するようなものではない。記事39は、避難者たちの間でみられる孤独死や自殺の問題を取りあげ、生活の基盤であった共同体の暮らしを奪われ、将来の見通しに大きな不安を抱える人々の「心の疲れはもはや限界に近づいている」とし、「この精神的苦痛は、心のケアでは根本的に解決しない」とはっきりと指摘している。「心の疲れ」は、むろん子どもたちにも作用する。記事40は、避難後の不登校の増加を取りあげるが、ここでも「専門家のカウンセリングは心の痛みを一時的に緩める対症療法にすぎ」ず、「不登校の原因は子ども本人というより、親の不安定な生活にある場合が多い」という専門家の指摘を紹介している。「子どもの心を守るための処方箋」は、したがって、「親が将来を見通せるように事故の収束や復興・・・経済的な不安を打ち消す対策」などになる。「大人たちの生活を立て直さない限り、子どもたちの心の不調は完治しない」からである。

 

3.4. 「特報部」記事の特徴(まとめ)

 ここまでみてきた「特報部」による記事の特徴を整理してみよう。

 まず特報部の記事には、避難者の現実に肉薄しようという姿勢がある。現実の表層にとどまらない「調査報道」をモットーとする特報部の特徴といえる(記事1・4)。避難者の現実の中から取材をとおして引き出されてきた最大の要素は「不安」である。除染の不徹底と保証の打ち切りによって相反する二重の拘束のもとにおかれた避難者たちは戸惑い、「苦悩」する。国や自治体に対する「不信」、「不満」はときには「怒り」にまで高まる。

 特報部の記事は、避難者のこうした現実を受けて政治・行政に対してはっきりとした批判を展開する。批判の矛先は、避難者の生活再建に寄りそわず、「復興を加速」させて納得のいかない「帰還」をうながす政策に向けられる。補償費用の節約や原発再稼働の促進といったこの政策の隠されたモチベーションにも言及する。その際、しばしば単刀直入で辛らつな言明や用語が公然と用いられる。たとえば国の帰還政策は、「安心神話」をとおして「低線量被ばくの受忍を押しつける」「棄民化政策」と表現される。

 政治・行政に対する批判は、住民の感情・認識・思想に対して、集団的強制力のもとに働きかける「リスクコミュニケーション」にも向けられる。特報部の記事が国のこの方面での活動に、「知らず知らずのうちに高い線量を受け入れさせるためのトリックになりかねない」(記事32)という認知と心理の操作を嗅ぎだし、それが、国家による媒介のもとで、「草の根」から国際機関に至る広がりをもって福島をおおっている状況を報告した意義は大きい。世界中の原子力体制と不可分である「被ばくの受忍」が事故後の福島で突出した形で表れているというパースペクティブを提供するからである。

 特報部のこうした報道姿勢は、社説にも要約的に反映されている。すなわち、2014年12月の衆議院選挙を前にした社説(記事41)では、除染の不徹底と基準緩和による住民の不信、数多く残る避難者への生活支援の欠如、避難指示解除後の支援打ち切りへの不安、「子ども・被災者支援法」の「骨抜き」状態による「無策」が指摘され、「政治の責任放棄」がきびしく批判されている。「特報部」の記事は東京新聞全体の主張を支える報道となっているといえるのである。

 

4.「3・11後」の記事の特徴

 「特報部」の記事に対して、2013年1月12日付の同紙の朝刊から開始された「3・11後を生きる」のページには、避難者と帰還に関して特報部の記事とは異なったアプローチをとるものが多く掲載されている。同様の傾向を持つ記事が、同時期の前後から、社会面や家庭面にも登場した。それらは、特報部の記事にあったような避難者の現実とそれが生みだす心理的葛藤との相互作用ではなく、避難者個人の「心の問題」とそれへの対処に関心を集中させている。

 

4.1. 「東北復興日記」が語る<治癒>と<回復>の物語

たとえば、「3・11後」のページには、東日本大震災の被災地で「メンタルヘルスプログラム」を実施しているNPO法人の活動記録を「東北復興日記」(以下「日記」)と題して連載しているが、その第90回(記事42)では、原発事故被災者の「心身の疲労」とそれに対する治療行為である「つぼトントンセラピー」が語られている。「深刻化する」ばかりの「心の問題」は、「非難の長期化で家族や地域のつながりが薄れ、孤立」すること、「仮設暮らしの孤独感、喪失感、家庭や職場の人間関係、・・・経済不安」に、その原因が求められ、被災地の放射能汚染環境や除染・帰還をめぐる政策など、「特報部」の記事が好んで取りあげていたテーマはまったく言及されない。さらに、この記事は、自分たちのセラピーの効果を、「参加者の表情も和らぎ」、「悩みを聞いてもらう、涙を流す」ことをとおして参加者自身の「自分の癒しにつながった」と、前向きに評価している。

 「日記」の他の記事も、同じような治癒と回復の物語という形式にそっている。すなわち、被災者の原初状態である喪失・停滞・苦悩・疲労が、セラピストやカウンセラーなどの補助者の介入によって変化し、被災者は覚醒し、転回を起こして癒しを見出し、その結果、希望・決意・未来・笑顔を取り戻す。そして最後に、そのプロセス全体を補助者が肯定的に評価するという構図が見いだされる。今、「日記」のいくつかの記事から、この物語の構図を、特徴的な語句・表現を引用しながらたどりなおしてみよう。

 

原発事故被災者の「治癒と回復」物語の構図

・第一段階

被災者の原初状態:喪失・停滞・苦悩・疲労

特徴的語句:「不安、独り、一人で、ストレス、悩み、葛藤、気にする、泣く、心の疲れ、心身の疲労、孤立、心の問題、心の病」。

特徴的表現:「一瞬で消え去って」「失ったものの大きさ」(「日記」130(記事44))

「あの日以来、泣いて泣いて、考えて・・・」(「日記」124(記事43))

「放射線の影響を気にして日々暮らしています」「保育園に子どもを預けることのできない親は仕事に復帰することができず、家で一人で子育てをしなければなりません」「独りで育児に悩み、ストレスを抱えている母親が急増」(「日記」131(記事45))

「震災と日常生活の複合した心の疲れと、ひとりで頑張らなければならないという思いからますます自分を追いつめている・・・孤独感、喪失感、家庭や職場の人間関係、さらに根底には経済不安もあります」(「日記」90(記事42))

「あの日のままで時計が止まり・・・」(「日記」127(記事46))

 

・第二段階

補助者の介入とその役割:被災者の孤立の解消と変化の起動

特徴的語句:「メンタルヘルス、メンタル面のサポート、つながり、出会い、集まり、相談、学び、交流」。

特徴的表現:「心の伴走者でありつづけたい」(「日記」130(記事44))

「出会いの場」「ストレスや悩みを解消する場所」「気軽に集まれる場所が必要」「たくさんの思いがつながり集まる場所」「学べる場」(「日記」131(記事45))

(セラピーを)「心の問題が深刻化する福島県でも開催してほしいという声もあり…」(「日記」90(記事42))

 

・第三段階

被災者の心理的転回:覚醒・安心・決意・治癒・回復

特徴的語句1:「心の変化、心に折り合い、癒し、解放、安心感を取りもどす/構築する、穏やか、再生、希望、創造、夢、未来、笑顔、幸せ、新たな」。

特徴的語句2:「精いっぱい、必死に、力強く、生き抜く、決意、孤軍奮闘、戻る、決める、選択(を)する」

特徴的表現:「ストレスを解放」「気持ちが楽になった」「悩みを聞いてもらう、涙を流すということだけでも自分の癒しにつながる」(「日記」90(記事42))

「美しい未来創造」「ここに戻ることを決めました」「ここで生きると決めた彼女らの決意の強さ」「すがすがしいほどの笑顔に安心させられる」(「日記」124(記事43))

「心に折り合いをつけ、この土地で生きる選択をした人々は、今ある幸せを精いっぱい見つけようと必死に生きています」「あたりまえの幸せを見つける作業は続きます」

(「日記」130(記事44))

「街を再生しようという新たな動きも」(「日記」127(記事46))

 

・第四段階

補助者によるプロセスの肯定的評価

特徴的語句:「共感、思いを共有、感銘、心に響く、心に残る」

特徴的表現:「小高で生きる情熱 感銘」「同じ被災地に住む者として自分はまだまだだと焦りにも似た気持ちにさせられました」(「日記」124(記事43))

「人々の思いを共有したいと思います」(人々の)「目の輝きは私のころに強く強く残っています」(「日記」130(記事44))

 

 記事43(「日記」124)は、このような治癒と回復の物語の極限の形を提示すると同時に、その背後にあるものの性格―何のための治癒か、何を目的にした治療か、何をすることを助ける癒しか―を明らかにしてくれる。南相馬市小高地区は原発事故後に避難指示が出され、「住む人のない家々は風雨にさらされて、無音、無温の世界」となっている。「住民の完全帰還を目指し」て「避難指示解除」を予定している市当局の方針の下、「故郷を何とかしたいと孤軍奮闘している人々」と筆者の女性は再会し、その「情熱」に「感銘」を受ける。「あの日以来、泣いて泣いて、考えて、ここに戻ることを決めました。そして、戻りたいと思っている人を、毎日ここで待っています」と語る女性(記事54で「養蚕を足がかりに、復興」を目指すと紹介されている)、「住む人のいない町に一人で花を植える」旅館のおかみ(記事55で「人の消えた街に通い、花を育てている」と紹介されている)、さらに、記事56で「妻と子ども二人で小高に戻ると決めた・・・子どもをちゃんと育てられるような状態にしたい」と述べ、そのために小高に食堂を作った会社経営者、そして「日記」102(記事57)で「私は被災者をやめよう」と、自分の「心の復興」を語っている花作り農園の女性などである。これらの人々の「情熱」と「孤軍奮闘」を前にした筆者の感慨は、省略なく引用するに値する。

 

「私は頬を打たれたような衝撃を受けました。一体何人の人が戻って来るというのだろう。それでもここで生きると決めた彼女らの決意の強さは、ある意味マイノリティーと分類されるかもしれない。もはや東電への恨みや、災禍による深い悲しみも全て自分で引き受けたように見えるすがすがしいほどの笑顔に安心させられる一方で、同じ被災地に住む者として自分はまだまだだと焦りにも似た気持ちにさせられました。」

 

 この記事からは、心理的な癒しをとおした治癒や回復が「帰還」と「復興」という目的に奉仕するものであることが明らかになる。その目的にそった「決意」は、小高地区の現状や今後の見通しが困難であればあるほど、「すがすがしく」、その「笑顔」は私たちを「安心」させる。彼女らのすがすがしさや笑顔は、「東電への恨みや、災禍による深い悲しみも全て自分で引き受け」、そうやって自分の情動の激動を乗りこえて、個人的な「決意」に至りついたところから生まれた。「戻ると決める」こと自体が現実の困難や複雑さを、現実的な根拠もないまま、ただ心理的な力によって圧倒することが「衝撃」を与える。被災者の心理的な転回の物語は、こうした現実と心理の転倒をとおして、ここでほとんど宗教的なレベルに昇華している。「決意」した人々は解脱した人々になぞらえられ、彼らの「孤軍奮闘」は、「マイノリティー」と描写され、被差別などの社会的に不利な条件と闘っていく状況になぞらえられる。

 「日記」が描き出す物語の頂点をなすこの記事にはもう一つ重要な特徴がある。それは外部の現実に対する批判性の欠如である。「決める」こと、すなわち個人の「決意」によって、宗教的(魔術的)に外部の条件を乗りこえるから、現実の社会的・政治的な問題は捨象される。原発事故をめぐる様ざまな領域の複雑な問題も、「全て自分で引き受ける」ことをとおして切り捨てられる。それは、たとえば賠償問題など、自分たちが当事者であることでも、あるいは今後の原発利用の当否など、より一般的な問題でも区別がない。また、小高地区の放射能汚染の状況や見通しも考慮されない。それらは、「戻ると決めた」人々にとって現実の困難とはならない。彼らの困難は、彼らが「マイノリティー」であることから由来し、それは、他の大多数の市民が、彼らと同じように「決意」することができないからなのである。

 したがって、この「決意」にたどり着くことがいまだできない者たちは、「頬を打たれたような衝撃を受け」て反省し、「自分はまだまだだと焦りにも似た気持ち」をとおして自分を劣った者として認識しなければいけない。被災者がたどるべき心理的階梯や、その先にある少数の者たち(「マイノリティー」)にのみ許された精神的到達目標の設定など、ここにも宗教的な規範の適用がみられるが、こうした宗教的な超越をとおして可能となるのは、「全て自分で引き受け」て「戻ると決める」ことなのである。

 

4.2. 「正しい」知識の性格とその役割

 治癒と回復の物語には、感情や社会関係的な要素だけではなく、知識や理解といった知的な要素も大きな役割を果たす。「日記」とともに「3・11以後」のページに定期的に掲載された「ふくしま便り」の2014年2月18日分(記事47)は、郡山市が開催したセミナーの様子が報道されている。このセミナーは物理学と医学の分野で権威のある機関に所属する二人の女性研究者が講師となり、放射線の健康影響がテーマとなっていたようだが、記事にはその点は明示されていない。ただ、家族に甲状腺異常がみつかって「心配」になり「涙を浮かべて質問する女性」に向かって、「甲状腺の手術を」受けている講師の女性医学者が、子どものころの「頸部肥大」が手術まで40年も気づかれずに過ごしたという自分自身の体験を語り、それを聞いた質問者の「女性の表情が穏やかになっていった」という場面の描写に記事の半分ほどを費やしている。科学的権威者が、実体験をとおして「正しい」知識を共有させたことが、「誰の言葉を信じていいのか分からない」という女性の不安を解消させたというプロセスが丹念にたどられ、知識の科学性とその心理的鎮静効果が強調されている。

 放射線の影響について「正しい」理解を得て「不安」を解消してゆくことは、被災者の治癒と回復にとって決定的な一歩となる。逆に言うと、「不安」をしずめる効果を持つ情報と理解が「正しい」ものとなる。すなわち、情報の正しさと科学的客観性が、情報の社会的効用に従属してゆくのである。

 記事48(「日記」85)は、震災後に「心の病が増えるだろうと考え」た学習塾経営者の女性が「本当のことを知りたいと思う若いママたち」などに向けて「正しい放射能教室」という冊子を作って配布している活動を報告している。それは「すぐに飛び火する」「怖い話や驚きの話」に対抗する「正しい情報」をつたえ、配布を受けた「市内の小中高校に通う女子」が「少しでも不安を減らし、希望や夢をもって」成長してゆくことを助けるものである。この記事では、「心の病」を防ぎ、「不安を減らし」「希望や夢」を与える情報が「本当のことを」伝える「正しい情報」であるという、情報と知識に関する功利的かつ規範的な見方があらわれている。原発事故直後に、内閣官房長官は「放射線がただちに人体に影響を及ぼす数値ではない」(記事49)という表現を何度も使ったが、この表現に対して、それが将来の健康影響に対する不安をひき起こすとして、「いま必要なのは科学的に正確な情報よりも的確な情報であ」るから、「健康に影響がないと言い切ってよい」と批判した毎日新聞の記事(記事50)と同様の情報提供に関する姿勢である(文献1参照)。

 上で言及した官房長官談話も示すように、原発事故後とくに問題化したのは、低レベルの放射線による一定期間後の<晩発的>健康影響だった。一般に、低レベルの放射線の長期的な健康影響については、はっきりとはわからない点が多く、「特に一〇〇ミリシーベルト以下の影響は、専門家の間でも意見が分かれている」(記事51)というのが現実である。しかし、「3・11後」にのせられた記事は、こうした科学知識の不確実性と限界を正面から取りあげることはせず、かえって、リスク認識の不確実性を、情報の受け手の姿勢や責任とからめて提示することがある。たとえば、記事52では、原発事故後2年2カ月ほどの時点で、「福島第一原発から四十一キロしか離れていない」安達太良山に登山した記者が、登山中に被ばくした累積放射線量を「心配ないことが分かる」と報告したあと、「登るかどうかは登山者自身の判断」であり、福島県が「正確なデータ出し続ける」のに応じて、「その情報をどう生かすか。受け手もしっかりしなければいけない」と一般市民のモラルを説いている。

 情報の受け手である個人が「しっかり」して、「どう生かすか」判断しなければならないのは、情報が単なるデータではなく、それに対する解釈や解釈を支える理論をも含んでいるからである。さらに、それら複数の解釈や理論は互いに対立するものであることもある。記事53では、こうした情報の錯綜と混乱状態について、南相馬市の住民による「情報も何が正しいかわからない。この場所が安全かどうかは自分の捉え方次第と思う」という発言を伝えているが、この発言は、他の南相馬市民による「南相馬に子どもと住む選択をした。・・・家族が離ればなれになっているのは不安だった。放射能やリスクはあるが、その時々で選択してきた」、「家族が一緒に住むための安心感が大切」という発言の文脈でなされている。すなわち、情報に対して「自分の捉え方」をすることとは、「家族が一緒」となって「不安」を解消する「選択」と適合する情報の解釈・選択であることが示唆されている。「何が正しいかわからない」状況では「正しさ」はわきに置かれる。「捉え方次第」といういちじるしく心理主義的かつ相対主義的な姿勢からは、情報と知識を現実的な有用性に従属させる姿勢が読みとれる。ここには、第5節で論ずる「必然−自発転換」、すなわち、選択肢を奪われた者が、強制を選択に変換する機構の萌芽があらわれている。

 子どもたちへの放射線による健康影響を恐れながら、それでも「家族が一緒に住む」という選択を可能にする知識の役割は、記事58の「ふくしま便り」でも強調されている。福一原発の爆発のあと、一歳と三歳の子どもを連れて青森県に避難した伊達市霊山町(「放射線量が局地的に高い特定避難勧奨地点に指定されていた場所」)の母親(「真由美さん」)は、地元に残った両親や先に帰宅した夫のもとに2011年の4月初旬には戻る。夫婦は4月半ばに「山下俊一長崎大教授の講演を聴いた」。そして「帰宅すると、真由美さんの顔を見た義母が良かったな。落ち着いてきたと言った。除染すれば住めると知り、安心できたのだ」。記事59が示すように、原発事故後、福島県立医大副学長に就任した山下俊一・長崎大教授は、積極的に福島県内で講演をかさねて事故後の放射線環境の安全性を説き、「放射線の影響は、実はニコニコ笑っている人には来ない」等の発言で物議をかもし、また、後に行われた子どもの甲状腺検査に際して中心的な役割をはたしたときも、その方針に様ざまな疑問が提出された(記事60)専門家である。しかし、この「ふくしま便り」では、山下教授の講演の内容やその社会的反響にはまったく言及がなく、それが母親を「落ち着いてきた」状態にした鎮静効果だけが取りあげられている。その後この夫婦は、「うちが土建屋だからできた」という自宅の除染を徹底して、「特定避難勧奨地点」であったにもかかわらず、一年にわたる再度の母子避難の後、「離れて住むことに耐えられなくなって」家族一緒の「生活(を)取り戻す」ことになる。困難を乗りこえた家庭生活の回復という成功物語に、「安心できる」知識の役割が無批判のまま重要な位置を占めている。

 記事61からも、「知識」があらかじめ決められた選択の枠組みにはめられて機能している様子が見てとれる。この記事には、一時は幼い子どもとともに避難した看護師の母親が、夫の仕事復帰を機会に「こんな大変なときだからこそ、家族は一緒にいた方がいい」という判断で、南相馬市の「自宅に戻ると決めた」あと、「当たり前の生活」を取りもどすまでの過程が描かれている。自宅に戻った当初、放射能を気にする生活に「子どもの心は、予想外にもろ」く、子どもは「笑顔を見せなくなっていた」という。それが、除染の進行や子どもの「遊び場復活を掲げたNPO」の活動(記事45・53)などで、「子どもたちが公園に戻る」ことになった。幼い娘にとっては「公園は友達みたいなもの。絶対必要なんです」と語るこの母親は、「事故前の当たり前の生活が少しずつ戻ってきていることを実感して」おり、「いろいろな情報がある中で、自分で判断できるように知識を身に付けたい」とも言う。たしかに「知識」には、「放射能による被ばくには注意を払」う方法などのノウハウも含まれるだろう。しかし、どのようなものであれ、こうした「知識」は、子どもにとって「絶対必要」な「公園にもどる」ことや、「家族が一緒に」暮らす「当たり前の生活」を否定したり疑ったりするものではなく、子どもを「外で遊ばせた親が、逆に非難される状況」のもとで自分たちの「結論」を正当化するものであることは明らかだ。

 

4.3. 現実と交差しない「科学」

 原発事故被災地の放射能汚染環境で子どもを育てることの困難を、「科学的」な知識のおかげで乗りこえるという物語は、記事62の「ふくしま便り」でも展開されている。原発事故後、「県内でも空間放射線量が高い保育園と分かった」福島市渡利地区のさくら保育園では、「仕事や家庭の事情で避難できない保護者はいる」という理由で、同地で「休まず保育を続け」ることにした。この方針を支えたのは、「学者の責任」として「福島(に)通う」(記事76参照)放射線の専門家である。この専門家の助言を受けて園庭を除染し、「ここで暮らせる」と思った園長は、事故直後の11年夏にはプールを使用し、同年10月から「外遊びを始めた」。そして、専門家のおかげで使えるようになった測定器を用いて、放射線を「測って確かめる」習慣をつけた。園長はそうした自分たちの実践を「放射線にも科学的に対処した」と肯定的に自己評価している。

 この記事も、放射能汚染環境にとどまって普通の生活を取りもどすという乗り越えと回復の物語を「科学」とそれに基づく除染の実践を強調しながら語る点で、記事58とよく似ている。そして、他の「ふくしま便り」同様、この物語には、外部の状況やそれとの相互作用に対する考察が欠落し、困難の克服と普通の生活の回復があたかも当事者たちの考え方と努力によってのみ可能となるかのような印象を与える。それは、他の「3・11後」の記事が、放射能汚染環境で生きるために、個人の心理的な転回を前面に出す構成を取っていたことと並行的である。

 福島市の渡利地区は福一原発からかなり離れた地点であるが、放射能汚染がきびしいことで、2011年をとおして話題になった地区である。同地区にある他の保育園は、「必死の除染作業」の後も再度上昇する放射線のために、「もう限界」と考え、秋には福島市西部に一部移転している(記事63)。事故直後の11年夏には「福島県で学校の屋外プールの水泳授業を中止する動きが相次ぐ」状況で、学童を放射能汚染環境でプールを入れてよいものかどうかということも、当時大いに議論された。「福島市はこの夏、市内の小中学校の屋外プール使用を見合わせる方針」で、「今でも長袖姿で通学する子どもたちが肌をさらす水着になって大丈夫か。放射性物質が混じった水が口に入るのでは…」という小学校教頭の懸念も記事64に採録されている。さらに、渡利地区は11年秋には「特定避難勧奨地点」の指定をめぐってきびしい政治的・社会的葛藤を生みだし、全国的に注目を集めた。渡利地区では深刻な放射能汚染があり、場所によっては「焼却灰だったらセメントで固めないと埋め立てできないレベル」「チェルノブイリ原発事故では、住民の避難が義務づけられた」レベルを超えていた(記事65)。しかし、「特定避難勧奨地点」の指定基準値を超えた放射線が検出された世帯に「避難の意向がない」という理由で指定を見送り、それに対して住民が強く反発した(記事66)。住民の反発は、南相馬市や伊達市において「子どもや妊婦がいる世帯に」については一般的な指定基準より厳格な「別の目安」が適用されたのに、それが渡利地区では適用されないという「二重基準」(記事67)によってとりわけ大きくなった。住民や市民団体からは、「都市部から子育て世帯がいなくなったら産業が立ちゆかず、税収も落ち込む。住民の安全よりも経済活動を優先しているせいだと憤る」声や、「国は県庁所在地である福島市を、なんとか避難区域にさせないように腐心しているだけだとしか思えないと批判」が生まれた。

 さくら保育園は「自力で除染 園児守った」と記事62は見出しで称賛するが、記事にはさくら保育園がある渡利地区が経験した不安と葛藤の激動がまったく取りあげられていない。また、「科学的に対処」した「自力の除染」が、渡利地区からの避難を視野に「特定避難勧奨地点」指定を求めた住民や、再開された園児の外遊びやプールに不安をいだく人々を十分に説得できる成果をあげていたのかどうか、明示的ではない。「測って確かめるが定着した」という保育園の「科学的」実践と、渡利地区をめぐる他の情報との整合性が明らかではないのである。それは、あらかじめ設定された「ここで暮らせる」という結論、すなわち、「安心神話」を批判した記事36が指摘した「『この数値なら大丈夫』『健康影響はない』という答えがもう出されている」状況下で、科学の権威をまとった「安心」確認の儀式と化していたのではないか、という疑問をぬぐい去ることができない。同時に、それは「ここで暮ら」すことを「選択した」「マイノリティー」(記事43)の団結の儀式ともなっていたと推測される。

 

4.4. 「復興」に欠かせない「子ども」の存在

 「3・11後」の記事には、「家族が一緒」というテーマが頻出するが、そこにはむろん子どもたちの安全という深刻な問題が付随する。そして、放射線に対する感受性が強く、放射能汚染環境でより高いリスクを負う子どもたちの健康と安全に腐心しながらも、結局は、「家族が一緒」の「当たり前の生活」を回復させるために、子どもとともに被災地で暮らすことを「選択」するという物語が展開する。しかし、<放射能汚染にもかかわらず被災地で暮らす子ども>というテーマは、事故前の幸福な家庭生活の回復という意味以上の社会的意味も持っている。それは、「子どもたちは復興の原動力」(記事68)という表現に代表される、子どもの存在と成長を共同体の存続の基盤ととらえる考え方である。記事69は、「原発事故後、市内で子どもを産む女性が激減した」事態を前にして、「子どもがいなくなった地域に将来はない」と考えた南相馬市の産婦人科医たちが、「妊婦や小さな子どものいる家」を優先して独自に除染する活動を紹介しているが、それは、「原子力災害を乗り越えるまちづくりを進めるため」であり、「何もせずにいたら、この土地から確実に人がいなくなる」事態を回避するためだという。ちなみに、「年間一〇ミリシーベルトぐらいの低線量被ばくは健康上問題ないとみる」この産婦人科医は、除染の目的を「数値を確認し、無意味な風評をなくして」、「妊婦の心理的な不安を軽くしたい」としているが、これは、上でみた保育園の「測って確かめる」実践の儀式性・象徴性と符合する。同じ南相馬市の住民たちによる「ダイアログ」では「子どもや若者がいないと未来は築けない」と切実な声」(記事53)もあがる。避難よりも、「復興」と「家族が一緒」の「当たり前の生活」を「選択」した人々は、「原子力災害を乗り越えるまちづくり」のために自分たちの子どもばかりでなく、地域の子どもたちをも必要とする。しかし、上でみたように、子どもたちこそ放射線による健康影響のより高いリスクを負う。この点に関しては、<低線量被ばくが人体に与える影響は必ずしもよくわかっていない>という科学の不確実性の問題とは別に、広範な「科学的」合意が存在する。したがって、あえて子どもたちに高いリスクを負わせて放射能汚染環境で生活させるには、特別の正当化が必要となる。記事70は、原発事故後、「練習場所」が「汚染された」状態で、「放射線量は震災前より高いまま」であるにもかかわらず、南相馬市で再結成された少年野球チームを取りあげている。この題材で本を出版したルポライターは、練習時にも「不安がつきまとう」チームの活動について、「単に野球をやりたいという子どもの希望をかなえるだけでなく、腹をくくり、覚悟を決め、原発事故が収束していない現実と向き合っている」と評価している。どのように「腹をくくり」、どういう事態に対して「覚悟を決め」ているのか、記事は何も言わない。この極端でありながら同時に安易でもある精神性の情緒的強調は、記事43が示した「全て自分で引き受けた」人々に対する宗教的な「感銘」と同様の昇華をとげ、子どもたちの身体や生命にさえおよぶリスクをおかしてまで彼らを「復興の道のり」に導く野球指導者の、常識的には本末転倒である姿勢を、「復興」へ向けた悲壮なヒロイズムとして称揚している。

 

4.5.  「3・11後」の記事言説の目的と背景

 ここまで、「3・11後」に特徴的な記事(及び同系列の記事)を検討してきたが、それらの特徴の基底をなすテキスト構成の「型」を整理してみよう。

 まず、これらの記事で特徴的なのは、心理的な<治癒>と<回復>の物語が中心化され、それが被災地への帰還、そこでの生活の継続という目的に奉仕していることである。帰還と原発事故前の「当たり前の生活」の回復は、子どもを含めて「家族が一緒」に放射能汚染環境で暮らすことを前提にする。すなわち、こうした言説の型をとおして暗黙に否認されているのは、避難生活である。避難は、子どもと親を引き離して家族を分断し、家族をふるさとから分断する。そういう異常な生活の中で避難者は心の平安を得ることができない。一方、放射能汚染への不安は、「正しい知識」や「徹底」した除染や、「ダイアログ」や「ワークショップ」での交流や学びをとおして「安心感が少しずつ構築されてくる」ことで乗りこえることができる。

 家族が子どもとともに原発事故後のふるさとにとどまることは、単に家庭の幸せのためだけではない点も、「3・11後」の記事は明らかにしていた。放射線による健康被害がより深刻に懸念されるにもかかわらず、子どもたちの存在は「復興」のために必要だった。「3・11後」のコラム執筆者や取材対象者が、保育園・学習塾などの教育産業関係者や、医師・看護師など、子どもを中心にする人的サービスにたずさわる人物であることも、子どもによる「復興」が前面に押し出されていることと無関係ではないだろう。また、分析対象となった記事のかなりのものが南相馬市に関係するものであった点も注目される。記事71が示すように、南相馬市は避難指示の解除と住民の帰還に関して、国の政策を先行するような積極策を取っており、放射能汚染環境での子どもを含めた家族の定住が政治的・社会的な争点となっているところだからである。もちろん、こうした帰還政策に対する住民の不安や批判(記事72・73)もあるが、それは「特報部」の記事に登場することはあっても、「3・11後」の記事に登場することはまったくない。

 

(以下、「福島第一原発事故関連報道と象徴暴力(下)」に続く。草稿はhttp://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~arai/recherche.htmlにて参照可能。)

 

福島第一原発事故関連報道と象徴暴力(下)目次

5. 「3・11後」の記事言説における<象徴暴力>の構成

5.1.  <象徴暴力>とは何か?

5.2. <必然−自発転換>過程における「科学」の役割

5.3. 「科学」による予防原則の解体

5.4. <必然−自発転換>の指標:「笑顔」

5.5. <象徴暴力>としての「心の復興」

6.  <象徴暴力>の展開:福島の「分断」と住民の二重拘束

6.1. 住民の「分断」の性格

6.2. <象徴暴力>にさらされた個人の内部分裂

6.3. 内部分裂を反映した言語表現

6.4. <象徴暴力>の効果:リスク認識の反転

7.  結論

 

記事一覧

1.本紙に菊池寛賞 原発事故検証を評価 政府・電力会社のウソ暴く。2012.10.16

2.本紙特報部にJCJ大賞 被ばく線量問題など追及。2012.07.12

3.日隅一雄賞特別賞に本紙「こちら特報部」 揺るがぬ原発報道を評価。2013.06.13

4.「報道の自由推進」 本紙に最優秀出版賞 外国特派員協会が創設。2015.05.08

5.帰還困難区域 国道6号 車制限解除 3年半ぶりに全線開通。2014.09.15

6.こちら特報部 国道6号 車内の最大線量6マイクロシーベルト(上) 開放されてもバリケード, (下) 便利になるが 人はいない 「子や孫は通らせたくないな」 住民。2014.09.18

7.井上能行のふくしま便り 国道6号 全面通行再開 浜通り 人の流れ再び。2014.09.30

8.原発避難者 移住急増 除染不安 生活再建余儀なく 本紙調査 福島県内・首都圏など3789件。2015.01.20

9.福島の笑顔届け 地元戻った女性 動画で魅力発信 「多くの訪問 復興につながる」。2015.01.19

10.「富岡に1人」映画化 福島第一地元 離れない 餌やり、花見…日常刻む。2015.01.27

11. 核心 原発事故避難 なお12万人 帰還も移住も見えぬ将来 仮設生活4年 異例の長さ。2015.02.27

12.都内避難者66%が定住希望 生活拠点化 減る帰還希望者。2014.05.01

13.(朝日新聞)自主避難者への住宅提供、2年後に終了へ 福島県が方針。2015.05.17

14.南相馬の避難勧奨解除 政府 最後の142地点、28日に。2014.12.22

15.自民「積極的に改憲」 参院選公約 原発再稼働も推進。2013.06.21

16.原発輸出推進で合意 安倍首相 ベトナム首相と会談。2013.01.17

17.反省なき 原発輸出行脚 「政官業」タッグ復活 「事故経験し安全技術向上」首相強弁。2013.05.04

18.印と原子力協定再開 日本 原発輸出の推進加速 共同声明。2013.05.30

19.核心 再稼働、輸出…事故の教訓は 福島に背 原発推進 首相式辞 汚染水・廃棄物触れず。2015.03.12

20.東京五輪決定 二〇二〇年への約束(1) 原発収束 待ったなし 平和の祭典 中韓との改善も。2013.09.10

21.汚染水 外洋に垂れ流し 1年前に把握、放置 福島第一 排水溝改修せず。2015.02.25

22.原発事故教訓 語らぬ首相 東北開催なのに言及1回。2015.03.15

23.何も進まぬ1年 子ども・被災者支援法期待したが… 政府に怒り 方針出して。2013.06.22

24.「被災者支援法の放置違法」 避難者ら国提訴へ。2013.08.20

25.復興庁幹部職員が暴言 市民団体を「左翼のクソ」 ツイッター。2013.06.13

26.復興庁幹部ツイッター暴言 役所に盾突く人=左翼 コレが官僚の本音? 被災者支援策の先送りが問題。2013.06.14

27.対象地域限定・県外避難の補助除外 被災者訴え届かず 支援法基本方針案 あす閣議決定 復興庁に要望書。2013.10.10

28.被災者置き去り「支援法」 意見4900件 聞いただけ 基本方針閣議決定 「県境で線引き残念」。2013.10.12

29.こちら特報部 福島の除染目標「年間1ミリシーベルト以下」 帰還進まず緩和の動き(上) 地元首長要望 国も呼応、(下) 「脱被ばく」に集中を 「帰りたい」「不安」揺れる住民 後ろめたさ感じる避難者 分裂克服こそ重要。2013.03.14

30." こちら特報部 国除染終了のまやかし(上) 被ばく「自己管理」に怒り 福島田村市 目標値ほとんど届かず、(下) はびこる誤った安全論 被ばく早見図 訂正前の図が流布したまま 影響なしが繰り返され。2013.07.11

31.年1ミリシーベルトの毎時換算値甘く? 除染目標 後退の動き 楢葉町議「ごまかし」と批判。2014.06.23

32.こちら特報部 福島の手抜き防護を問う(上) 再除染 国予算たった78億円 線量高止まりに不安 「防ぐより慣れよ」が政府の本心?、(下) 作業員線量 一元管理も強制力なし 生命軽視 進む「刷り込み」 「大多数の業者数字いいかげん」。2014.04.11 

33.こちら特報部 福島原発慰謝料「1年打ち切り」波紋(上) 避難指示区域 解除ありき反発 田村市都路地区「今の線量では帰れない」、(下) 事故収束まだ「理解できない」 自治体も困惑「一律の基準おかしい」 対象外住民にねたむ声も 他の地域への「前例」を懸念。2013.11.12

34.こちら特報部 棄民化の策 帰還を強要(上) 賠償打ち切り 拒めば自主避難 原発事故の避難区域解除で被災者に生活苦 年金生活の高齢者→家壊れ畑荒れ除染・医療に不安→「戻れないから戻らない」、(下) 賠償打ち切り 拒めば自主避難 仮設延長は自治体次第 金銭支援惜しむ政府→公的保険減免や高速・医療費無料も風前。2014.05.27

35.こちら特報部 国の家賃補助申請打ち切り (上) 自主避難もうできない? 1世帯6万円が自己負担に、(下)「家計もたない」 「実態把握せず」 まだ2年見放し始めた 避難の権利認めて。2013.03.25

36.こちら特報部 疑問だらけ 「放射線リスコミ」(上) 帰還ありきの施策集 「健康不安解消の議論尽くせ」 <リスクコミュニケーション>、(下) 「安心神話」のスリコミ 「政府に好都合な情報だけ」 福島県民「信じられない」。2014.03.06

37.こちら特報部 新日本原発ゼロ紀行 福島第一編 (福島県)(上) 集会裏に原子力ムラ 草の根で安心神話、(下) 海外からも伝道師 IAEAや仏経済学者 官と一体巻き返し。2014.01.01

38.こちら特報部 放射線の懸念二つの対応(上) 避難の子「県外留学」 高校卒業まで生活の場提供 松本のNPO支援活動、(下) 安心一色の「リスコミ」 被災地行政が広報に躍起 「早期帰還…賠償費抑制狙う国」 「避難への支援自治体整備を」。2014.04.03 

39.こちら特報部 福島の被災者は苦しんでいる(上) 「東電にイジメられズタズタ」 孤独死 二本松の仮設で4日、(下) 心のケアでは解決せず…法整備しかない 「お金いらない元に戻して」 「夫婦うつ、家族皆被ばく」。2014.06.27

40.こちら特報部 福島 増える不登校 転校強制なじめず(上) 原発事故 子どもの心むしばむ 遅い対応「もう行政頼まない」、(下) 親の不安いら立ち伝染 生活立て直し不可欠 収束急ぎ将来の展望示せ、2013.11.05

41.社説 2014衆院選 福島の被災者 苦悩を受け止めたのか。2014.12.11

42.東北復興日記(90) NPO法人JKSK結結プロジェクト事務局相川ふみさん 自分を追い詰めないで。2014.05.09

43.東北復興日記(124) 一ノ蔵マーケティング室長・山田好恵さん 「小高で生きる」情熱 感銘。2015.01.23

44.東北復興日記(130)ランスタッド株式会社EAP総研所長 川西由美子さん 南相馬で力強く生きる。2015.03.13

45.東北復興日記(131)よつば保育園副園長 近藤能之さん 気軽に相談子育てカフェ。2015.03.20

46.東北復興日記(127) 環境ライター・箕輪弥生さん 双葉の復興は未来への鏡。2015.02.20 

47.井上能行のふくしま便り 放射線の不安 徹底議論を。2014.02.18

48.東北復興日記(85)ベテランママの会代表 番場さち子さん 放射能知識の冊子ご協力を。2014.04.04

49.放射線恐れ輸送拒否も 福島、物資届かず。2011.03.17 

50.(毎日新聞)記者の目:福島第1原発の放射性物質漏出=斗ケ沢秀俊。20110318 

51.こちら特報部 「放射線」政府広報 「主張 一方的」(上) 1億円かけ「安心」強調 リスク議論 本格化しないのに…、(下) 健康被害 過小評価の恐れ 掲載の経緯 不透明 被災者ら憤り「政府の本音出た」。2014.09.22 

52.井上能行のふくしま便り 安達太良山 山開きに8000人 山小屋の線量、毎日公表。2013.05.28

53.紡ぐ 2013  南相馬の現実語り合う 「ダイアログ」 都内初開催。2013.03.29

54.南相馬・小高区復興の一助に 養蚕プロジェクト始動 主婦らNPO 手織り商品化目指す。2014.06.26

55.帰還 花が待ってるよ 原発20キロ圏の南相馬 旅館おかみ「街に彩りを」。2014.03.03

56.あなたの復興率は?2015.03.08

57.東北復興日記(102) のらとも農園 広畑裕子さん 南相馬の今を知って。2014.08.05

58.井上能行のふくしま便り 特定避難勧奨地点に指定されて 除染徹底 生活取り戻す。2015.01.06 

59.こちら特報部 福島の大学情勢に“異変” 「親原発」勢力 2校に接近(上) 県医大 副学長に山下氏 講演でも問題発言連発 セシウム 「危険の証拠ない」と主張、(下) 福島大 「もんじゅ」独法と提携 批判しにくい空気懸念 学長は「環境回復に活用」 「住民に背向けた」との声も。2011.07.28 

60.こちら特報部 子どもの甲状腺「おおむね良性」(上) 方法・説明 親は不信 福島、3割以上「のう胞」 「正常?異常?分からない」、(下) 半年ごとに検査を 県「次は2年後」 健康対策せず。2012.05.18 

61.原発被災地で暮らす<下>「距離25キロ」で子育て 住民主体で安心づくり。2015.03.20

62.井上能行のふくしま便り 自力で除染 園児守ったさくら保育園 測って確かめる実践。2015.01.13

63.(東洋経済)混乱する除染現場、放射性物質汚染地域に募るむなしさと不安。2012.03.07http://toyokeizai.net/articles/-/8752

64.こたえぬ政治 放射性物質問題 学校プールに基準 福島を想定し文科省策定へ。2011.06.07

65.こちら特報部 セシウム 雨で山から流入 汚染強まる地点も 福島・渡利地区 専門家「子どもと妊婦避難を」。2011.10.06

66.こちら特報部 高線量地点あちこち 避難区域指定進まない福島市 渡利地区説明会 憤る住民(上) 除染優先納得できぬ 行政「勧奨地点なし」、(下) 子ども救う選択肢を 東電の補償逃れ心配。2011.10.10

67.こちら特報部 「特定避難勧奨」指定ない福島市渡利 二重基準に住民怒り 政府と交渉 「なぜ南相馬の子と違う」。2011.10.29

68.こちら特報部 福島の幼稚園経営三重苦(上) 園児減り続けたら… 少子化、避難、負担増 「子どもたちは復興の原動力」、(下) 東電の賠償進まず 国も後押しせず。2013.01.25

69.子どものいない南相馬なんて 妊婦・子育て宅独自除染 市民有志、新手法試み。2012.06.22

70.南相馬 2年の苦闘を本に 原発禍 野球少年追う 地元出身ルポライター 「実態知って」。2013.07.19 

71.(福島民報)「28年4月解除」表明 南相馬市の避難指示解除準備、居住制限区域。2013.12.26

72.こちら特報部 福島・南相馬の「復興」(上) 除染特需 偏る「恩恵」 若者・子育て世代帰還鈍く、(下) 戻らぬ町の「かたち」 商店街、人通りなし「商圏壊れた」。2015.02.23 

73.南相馬「特定避難勧奨」解除1カ月 残る不安 帰還に二の足。2015.02.03

74.井上能行のふくしまを聞く 福島大・清水修二特任教授。2015.04.07

75.井上能行のふくしま便り 相馬野馬追と競馬場 夏の主役が疾駆する。2013.07.16 

76.井上能行のふくしま便り 原発批判の旗手 安斎育郎さん 「学者の責任」福島通う。2015.03.17

77.絆 新たに 桜の下で 福島市・花見山 避難者癒やす桃源郷。2012.04.23

78.井上能行のふくしま便り 復興ツアー 被災者の言葉 平凡な幸せ大事にして。2013.02.05

79.井上能行のふくしま便り 避難指示解除の田村市都路地区 帰還 逃げるより難しい。2014.04.29 

80.井上能行のふくしま便り 支える思い 芽生えた 都立高生が広野町訪問。2013.10.08

81.東北復興日記(81)NPO法人JKSK結結プロジェクト事務局長 薗田綾子さん 絵を描きながら癒す。2014.03.07

82.東北復興日記(100)JKSK会長木全ミツさん 原発周辺の「今」をこの目で。2014.07.18

83.こちら特報部 放射線の影響 話しづらい(上)、(下) チェルノブイリでがん増えた「事故の4年後」 物言えぬ雰囲気の中 行政は検査縮小の動き 正確な調査・補償・相談…そろってこその安心。2015.03.11

84.考える広場 論説委員が聞く 福島と「つながる」とは 女の闘い、日常の中から 脱原発福島ネットワーク 武藤類子さん。2014.09.27

85.福島の今の声 東京に届け 在住者招き「トーク」3年 作家・渡辺一枝さん 「闘い、普通の生活の中に」、2015.02.10

86.井上能行のふくしま便り 国連防災世界会議 各地でイベント。2015.03.24

87.春よ 東日本大震災2年 放射能怖いけど「楽しく生きてやる」 不安でも前向き 若者の日常発信 相馬高の女子生徒 映像に。2013.02.24 

88.卒業式「一人だけど一人じゃない」 川内村の秋元さん「悔いはない」 笑顔の絆で巣立つ。2015.03.23

89.福島県37万人調査 甲状腺がんの子ども57人に。2014.08.25

90.こちら特報部 福島・小児甲状腺がん 募る不信(上) 県の検査結果 別機関と違う 「異常なし」覆す所見も、(下) 当事者にも詳細は非公開 賠償額を減らす狙いか。2013.03.09

91.栃木県北部 被ばく検査ためらう 乳幼児保護者 考えるとストレス。2013.12.16

92.(Independent Web Journal)「被曝限度? 知らない、知りたくもない」北関東被災地に意図的蒙昧の傾向 〜「茨城・群馬・栃木」国立大学有志が報告。2014.02.08

93.空襲に避難禁じる異常 戦時下の「防空法」 被害小さく宣伝/原発安全神話に重なる。2014.03.03

 

 

参考文献

1.荒井文雄(2012):「重大災害時におけるメディアの役割―東京電力福島第一原子力発電所事故後における放射線健康被害リスク報道の検証―」、京都産業大学論集・人文科学系列第45号、pp.103-145.

2.荒井文雄(2014):「風評被害のプロトタイプ意味論」、京都産業大学論集・人文科学系列第47号、pp.383-415.

3.安斎育郎(2011):『安斎育郎のやさしい放射能教室』、東京、合同出版。

4.Bourdieu, P.,(1979) : La distinction : critique sociale du jugement, Paris, Les Éditions de Minuit.(邦訳:石井洋二郎訳、『ディスタンクシオン <1-2> -社会的判断力批判』、藤原書店

5.Bourdieu, P.,(1994): Raisons pratiques : sur la théorie de l'action, Paris, Seuil.(邦訳:加藤晴久訳、『実践理性行動の理論について』、藤原書店

6.Bourdieu, P.,(1996): Sur la télévision suivi de L'emprise du journalisme, Paris, Liber .邦訳:櫻本陽一訳、『メディア批判』、藤原書店

7.Bourdieu, P.,(1997): Méditations pascaliennes, Paris, Seuil.(邦訳:加藤晴久訳、『パスカル的省察』、藤原書店

8.Bourdieu, P., et J-Cl Passeron, (1970) : La reproduction : Éléments d’une théorie du système d’enseignement, Paris, Les Éditions de Minuit. (邦訳:宮島 喬訳、『再生産』、藤原書店)。

9.Days Japan 2013):「汚染地図にみる子どもたちの住むまち」、Days Japan2013年4月号、PP.1

10.日野行介(2013):『福島原発事故 県民健康管理調査の闇』、東京、岩波書店。

11.日野行介(2014):『福島原発事故 被災者支援政策の欺瞞』、東京、岩波書店。

12.井戸謙一(2015):『怖がっていい 泣いていい 怒っていい いつか、さいごに笑えるように―』、ママレボ出版局。

13.烏谷昌之(2001):「フレーム形成過程に関する理論的考察」、『マスコミュニケーション研究』58号、pp.78-93

14.マクネア、ブライアン(2006):『ジャーナリズムの社会学』、東京、リベルタ出版。

15.水島 朝穂・大前 治(2014):『検証 防空法:空襲下で禁じられた避難』、京都、法律文化社。

16.中川保雄(2011):『放射線被曝の歴史 : アメリカ原爆開発から福島原発事故まで』、東京、明石書店。

17.日本科学者会議編(2013):『環境・安全社会に向けて 予防原則・リスク論に関する研究』、東京、本の泉社。

18.大石裕(2005):『ジャーナリズムとメディア言説』、東京、勁草書房。

19.大竹 千代子・東 賢一 :『予防原則―人と環境の保護のための基本理念』、東京、合同出版。

20.欧州環境庁編 (2005):『レイト・レッスンズ : 14の事例から学ぶ予防原則 : 欧州環境庁環境レポート2001』、東京、七つ森書館。

21.島薗 進(2013):「中川保雄『放射線被曝の歴史』に学ぶ(1)〜(3)」、ブログ『島薗進・宗教学とその周辺』(http://shimazono.spinavi.net/?p=236)に掲載。

22.島薗 進(2013):『つくられた放射線「安全」論 −科学が道を踏みはずすとき』、東京、河出書房新社。

23.東京新聞「こちら特報部」(2013):『非原発―「福島」から「ゼロ」へ 』、東京、一葉社。

24.津田正太郎(2006):「ニュースの物語とジャーナリズム」、大石裕編、『ジャーナリズムと権力』、京都、世界思想社、pp.62-80

 

 

Symbolic violence in media discourse on recovery from the Fukushima nuclear power plant accident

Fumio Arai

 

Abstract

Several years after the severe accident at the TEPCO “Fukushima Daiichi” nuclear power plant, the victims of the accident are being urged to return to their radiation contaminated hometown by the government which, still adhering to the nuclear energy policy, has hastened to “reconstruct” the evacuated areas. Based on the concept of “symbolic violence” elaborated by French sociologist Pierre Bourdieu, we analyzed the newspaper discourses promoting resettlement and reconstruction and show that the covert psychological process they employ has the characteristics and the effect of “symbolic violence”.

 

Keywords: nuclear power plant accident, newspaper reporting, critical discourse analysis, symbolic violence, media literacy